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あふれる想い93...
2009年01月05日

新しい店舗を立上げるという話が出始めた頃
私にも新たな転機が訪れていました。

まずは会社のことでいうと
それまで良くしてくださっていたトップたちが
またもや昇進され、他店へ栄転となったのです。
長年続いていた闇を一掃するかのように集められたトップたち。
全員がこの店での役割を終えたかのようでした。
私は心から、この方たちに感謝しています。

次々と変わるトップたち・・・
平均年齢がぐっと下がり、どこか力強い勢いを感じました。
仕事内容も日々充実しており、私は仕事にやりがいを感じることができました。
会社に入社した頃、私のような立場での入社は異例だとされていましたが
この頃になると他部署でも、私と同じような境遇の
バツイチや子持ちの女性を採用してくれるようになっていたのです。
本当にこれは嬉しいことでした。
嬉しいことはもっとたくさん起きました。
会社内に喫煙所が設けられ、事務所がタバコの煙で
真っ白くなることがなくなったのです。
他にもいろいろな所が改善されていきました。
まるで止まっていたものが動き出したかのように
ひとつひとつが良い風向きになっているようでした。

そして我が家ではこの頃・・・
娘が保育園を卒園するまでに成長していたのです。
一歳の頃は三度も入院していた娘ですが
年々、病気をする回数も減り健康に育ってくれました。
託児所での半年。
保育園での五年間。
振り返ると・・・やはり大変でした。
でも、それ以上に楽しいことも嬉しいことも
私にはたくさんあった気がします。
その中でのダントツは、やはり娘の存在です。
保育園での行事の中には
運動会やクリスマス会、発表会などたくさんありますが
その行事に参加するたびに、娘の成長を肌で感じることができました。
子供の笑い声や笑顔は宝物です。
娘を授かれたことで、たくさんの喜びや感動も体験できました。
そして今度は、翌年から小学校入学という大きな節目がきていたのです。
私はその時、少しだけ肩の荷が降りたような・・・そんな気がしていました。

そしてプライベートでいうと・・・
他店の話がくる1年前、友人の紹介により新しい出会いがありました。
出会ったのはひとりのヒーラーさんです。

それともうひとつ・・・
私はその頃から自分の生活リズムにバランスがとれ出し
今までできなかった読書をするようになっていました。
私が読んでいた本の中にはまだその頃は無名に近く
今は大人気のスピリチュアルカウンセラーE氏の本もありました。

E氏の本に書いてある手引書のようなメッセージや
出会ったひとりのヒーラーのおかげで
今まで疑問だったことなどが、少しずつ明確にわかり始め
こんがらがっていた何かが紐解かれていったのです。

目の前には新しい転機の数々・・・
私は抵抗することなく、その流れにのろうとしていました。

目に見えない世界を意識し出し
まるでテレビのチャンネルを合わせるかのように
精神世界へと意識を向けたのはこの頃からかもしれません。
今から十年ほど前のことです。

そしてこの頃・・・
今の主人との出逢いがあったのです。
第一印象は最悪でした。
正直に言うとタイプではなかったし
むしろあまり近づきたくない人でした。
でも・・・出逢ったのです。
続く...

あふれる想い92...
2008年12月30日

入社してから・・・
私は幸せな時もありました。

いくつかの恋も経験し
真剣に結婚を考えてお付合いした方もいました。

そして・・・同じくらいつらい恋もありました。

今の再婚した相手である主人と出逢ったのも
実はこの職場です。

主人と出逢うために・・・
もしかすると・・・
私はこの会社である必要があったのかもしれません。

様々な人との出逢いと別れ・・・
私にとってはすべてが必要なことだったのでしょう。
イヤだった思い出も、辛かった思いでも
当時の会社でのことは、今では良い思い出です。

新しい部署へ移動してから数年後。
ひとりだけ私に意地悪をした方がいらっしゃいました。
あとになって、この方とはもちろん仲良くなりましたが
他店から転勤してきたばかりだったこの方は
仕事をどんどん片付けていく私を気に入らなかったらしく
「小娘ごときが、この部署を取り仕切りやがって」
まるで、そんな声が聞こえそうなほどの
敵意剥き出しのエネルギーを出し、私はそれを敏感に感じていました。

私は前部署のボス以来、こういった意地悪がなかったので
この方の態度に、また憂鬱になっていました。

この方は他県の店舗から転勤されてきた方で
単身赴任をされている年配の方でした。

ちょうど今頃の年末・・・
私が神棚に授ける「榊(さかき)」を買いに、外へ行った時のことです。

とまれのラインで私が停まっていると
脇から左折してきた一台の車が
なんと私の車に向かって突っ込んできました。
運転者は年配のおじさんでした。
運転ミスだったらしく、おじさんは私にずっと謝っていました。
やっとの思いで購入した新車がボコボコ。
とってもショックでした。
上司に事故の連絡をすると
会社から近い場所だったこともあり
すぐに上司はきてくれました。
相手方はとてもいい方で、事故処理はスムーズに運びました。

会社敷地内の整備工場へ
私は事故車であるマイカーを運ばなければならず
仕方なくボコボコになった新車を運転して帰りました。
それを見ていた何人もの方が事務所に駆け込んできて
身体は大丈夫だったのかと心配してくれました。
私はショックだったのと、嬉しかったのとで
泣きそうになりましたが我慢しました。

買ってきたばかりの榊を同僚に渡し、飾ることをお願いすると
そばにいた例の転勤おじさんがこう言ったのです。
「事故った奴が買ってきた榊なんて、縁起悪いよなぁ」
ついに言葉でやられてしまった瞬間でした。
私は、それまで張り詰めていた感情が爆発し
思わず事務所で号泣してしまいました。

私が新しい部署にきてから泣いたのは
この時が初めてだったので
周りの方は驚いていたようです。
あとになって他の方から聞いたのですが
この転勤おじさん・・・
上司からも、周りの同僚からも
そして他部署の上司からも大目玉をくらい
かなり反省していたとのことでした。

日が経つにつれ、自然と私たちは話をするようになり
それはこの転勤おじさんが元のお店に戻る日まで続きました。
とても懐かしい思い出です。

やがて、私には新店舗へ配属という
新しい流れが訪れようとしていました。
続く...

あふれる想い91...
2008年12月26日

新しい部署へ異動し、私は慣れない仕事を覚えるのに必死でした。
また一からのスタートだったのです。
仕事は選べませんが、正直に言うと
最初はその部署の仕事があまり好きではありませんでした。
ただ、数ヶ月後には以前の部署でやっていたような仕事を
私が担当することになっていたのでそれまでの辛抱だと思っていました。

最初は何をどうしたらいいのかさえわからず、ただ時間ばかりが過ぎるので
とにかく毎日朝から掃除を始め、その部署をキレイにすることから始めました。

その部署はその頃、喫煙者の休憩所のようになっており
壁や窓がタバコのヤニで汚い部署だったのです。

毎日、朝から晩まで誰かしら必ず吸っているので
とても私には辛い事務所でした。

タバコの匂いが制服や髪の毛にうつり、それがイヤで仕方がありませんでした。
当時は、今のように禁煙者が守られるような時代ではなかったので最悪でした。

私は離婚後、母乳をやめてからタバコを吸った時期がありました。
吸うといっても1日に4~5本程度でしたが
イライラした時などは自然と本数が増えていました。

しかし、少しでも本数を吸い過ぎると気持ちが悪くなっていました。
のども痛くなり、私にタバコは合わないと思ったので
結局、ある日を境に私はタバコをきっぱり止めたのです。

タバコを止めると、他の人の煙が異常に気になり
吸いたい気持ちはまったくありませんでしたが
たくさんの人が一斉に吸う時など
事務所が煙で真っ白くなるほどの時はとても耐えられませんでした。
そして、タバコをやめた私は
この事務所にいることで日々、自分の身体が心配になりました。

新しい部署に異動になってからは
嫌がらせやイジメなどはまったくありませんでした。
前ボスのように病的かと思えるほどの行動は
やはり普通ではなかったのだと思います。

フロアが別になったことで前部署との接点もほとんどなくなり
社員と顔を合わせることもなくなっていきました。

私が異動したことで他部署のボスたちは
自分の管轄に、より近くなったことで
以前にも増して気にかけてくださるようになっていました。

そんな時、突然私の身体に異変が出ました。
朝、目が覚めたらお布団からまったく起き上がれないのです。
腰に激痛が走り、立つことが出来なくなってしまいました。
その症状は家の中を這いずるようにしなければ移動できないほどでした。
でも・・・仕事には行かなければなりません。

腰を手のひらでギュッと押さえ、歩幅を小さくして一歩ずつ進めば
何とか歩けるようにはなりましたが
それでも車のシートに座ったり、デスクの椅子に座ることも
ズキズキと激しい痛みが走り、とても耐えられないほどだったのです。

もちろん仕事は休むわけにはいきませんでした。
いつものように掃除をしようと、バケツに水を汲みに
給湯室まで行こうとした時のことです。

歩幅が小さく、ほんの少しを移動するにもすぐには動けない
私の身体の異変に、みんなが気がつきました。
そして、他部署のボスに呼びとめられました。
一体どうしたと聞かれたので
私は原因不明の腰の激痛について事情を話すと
ボスは心配してくださり、部下に
どこかいい病院がないかを調べさせ
予約の連絡をいれるように指示してくださったのです。

ボスの部下のひとりが治療院へ連絡をしてくれている間に
ボスのもうひとりの部下に今度は呼び止められました。
そして、今回の異動をどう思うか・・・
前の部署で何があったのか・・・
すべていい機会だから真実を話して欲しいと言われました。
とても迷いました。
何故こんなことを聞くのか・・・
私は試されてるの?
この人も上のスパイ?
いろいろと頭をよぎったからです。

迷った挙句、このあり得ない機会を信頼することにし
私は自分に起きたことや、異動になるまでの様々な経験を
この方に少しずつ話し始めたのです。
もちろん自分についてのことだけであり
余計なことまでは言いませんでした。

そして、後日判明したのですが
私に話を聞くよう部下に指示したのは店のトップだったのです。
店のトップであったこのボスは
いわば、意地悪おじさんの前部署ボスよりも上の立場。

トップの耳にも入るほど前部署ボスの殿さまぶりは
どうやら以前から大きな噂となっていたようです。

支社のトップも、ある日突然
部署からいなくなってしまった私のことを心配し
いきさつを調べるよう店のトップに指示していたようでした。
そのことを聞いて話して良かったことを理解しました。

それから数日後、私は紹介された治療院へ三回ほど通い
劇的に腰は回復していきました。

何故あの時・・・
突然あんな激しい痛みに襲われたのかは原因不明です。

異動になってからというもの、私は全くといっていいほど
前部署への出入りはなくなっていたので
さっぱり前部署の様子はわからなくなっていました。

ところが、ある日・・・
様々な出来事が一度に耳に入ってきたのです。

私から事情を聞いた以外にも
トップたちはいろいろな方にも調査をしていたらしく
調べていくうちに、私とは関係ないことまでもが芋ずる式に発覚し
私を採用し意地悪おじさんに変貌した方は
他県の営業所へと飛ばされてしまったとのことでした。
しかもマスコットだった彼女は退職。
この時期、たくさんの方がいつの間にか退職されていたのです。
私はそのことを全く知りませんでした。
何日も後になって知ったのです。

ついに・・・トップのちからで
まさに闇を一掃するかのような出来事が起こったのでした。
長年続いていた闇のような組織をすべてリセットし
新しい人材によって、その部署は生まれ変わろうとしていました。

そして次々と人が集められていきましたが
素人集団でまかなえるほど簡単な業務ではなかったため
やがてその部署の仕事は、業務の基盤を東京へと吸収されたのです。

あの時起きた出来事は・・・いったい何だったのか。
まるで闇を排除するためだけに
あの時、トップをはじめとする人材が
あのタイミングで集結されたとしか私には思えなかったのです。
続く...

あふれる想い90...
2008年12月22日

リーダーに繋がっている人・・・
ボスに繋がっている人・・・
私は自分の部署が信用できなくなっていました。
ただ自分を信じて仕事をこなすだけ・・・
それは仕方のないことだったのかもしれません。

役職の男性でもない限り、他店に飛んだり
部署異動を命じられるなど、会社的にはありえないこと。
まして女性の私になんて・・・。
でも私には、そのありえないことがまさに起ころうとしていました。

数日後、ボスから呼出され
「来月から、お前は○○○○課だから。
今、募集かけてるから決まったら、そいつに引継ぎして。
おまえなら、何処行っても大丈夫だろ」
イヤなら辞めるしかありませんでした。
でも、私は仕事を辞めるわけにはいかなかったのです。

数日後、新しい女性が入社してきました。
マスコットよりも若い女性でした。

私がかかえている仕事を引継ぎするといっても
半端でない量だったため教えるのはとても大変でした。
結果的に私の仕事は数人に分けて引継ぎしたのです。

別フロアの他部署へ配属される前日のこと。
「ボスの指示とはいえ、今まで無視してごめんね・・・」
ひとりの男性が私に謝罪してくれました。
そのあとも、同じような方がひとり。
またひとりと謝罪してくれたのです。みんな男性だけでした。

退職するわけではなく
フロアと所属部署が変わるだけだったのですが
同じフロアで違う部署にも関わらず
困っている時、私を助けてくださった方たちが
送別会のようなものを用意してくださいました。
同じ部署では真っ先に謝罪してくれた方だけが参加してくれました。

優しく接してくださり応援してくださる方たちもいる一方で・・・
複雑な関係のまま、私との接点をなくしていく女性たち。
とても虚しく、悲しかった思い出です。
中学の部活の仲間だった彼女たちにダブって見えました。
まるで何もなかったかのように
他の人には平気な顔で装える・・・
私には真似できないことです。

ひとりひとりは皆さん素晴らしい方なのに・・・。
どこで歯車が狂ったのか。
私が入社してきてから、新しい流れに突入したひとつの部署が
ほんの数ヶ月でガラリと変わってしまったのです。

心機一転・・・
私は新しく配属になった部署で
また一から、新しい仕事を覚えることとなったのです。

この時、最悪に思えたこの異動が
のちに私の運命を変えることになろうとは
まだ知る由もありませんでした。

そして・・・私の抜けた前部署は
やがて崩壊の危機を迎えたのでした。
続く...

あふれる想い89...
2008年12月20日

何故あんなにひどいことを指示できたのか・・・
理由はしばらくしてから明らかとなりました。

女性は難しいです・・・。
あとになって色々と表面化してきました。

他の部署から頼りにされることで私の存在が目立ち始め
それが気に入らない・・・
簡単にいうとそういったことが発端だったようです。

小さい頃から同じようなことを経験してきて
また、大人になっても同じようなことで・・・。
注目されるようになる度、こんなことに・・・。

私はひどく疲れていました。
仕事量が増え、まるでキャパを知らないかのようにこなせても
その疲労は肉体や精神に、確実に後になって出ます。
おそらく・・・その時の仕事量は、通常の私の限界を超えていたはず。
絶対私の力だけでは到底クリアできないと感じるほど。

そして、今日は終わらないかも・・・
今日こそは無理かも・・・
そう思う時は、何故か同じフロアにいた違う部署の方が
私の所へきて必ずといってもいいほど
サポートをしてくださるようになっていました。
信じられないことが次々と起こっていました。
困った・・・そう思うと助けてくれる人が現れるのです。
もう、そうなると感謝以外に何もありませんでした。

他部署の人が・・・
自分の仕事そっちのけでサポートしてくれることは
この会社ではとても珍しいことだったようで
私の上司やリーダーをはじめ、同僚たちも信じられない様子でした。

他部署の人はサポートしてくれるなか
同じ部署の人は私を完全無視。
これもまた信じられません。
でも・・・残念ながら真実です。
すべては上司の強い指示でした。

ところが・・・なんと黒幕は、可愛い顔したマスコットでした。

ボスはマスコットの機嫌を損ねないよう
いつも一言一言に耳を傾け、言われるがままだったようです。
いくら指示されたからといって行動するなんて・・・

私が嫌がらせやイジメに絶えられなくなり
「辞めます」と言い出すまで部署全員で
無視するよう指示するなんて・・・。
私にとっては、指示を守った他の人も一緒に思えました。

私が一度だけ、ボスにキレタことがあります。
私は二十歳の頃からずっと香水を使っていて
もちろん面接の時も、入社してからも
毎朝、ほんの少し香水をつけていました。
入社してからは、あのボスでさえ
近くにくるといい匂いがするなぁと言っていました。

私とは違うブランドでしたが
ボスのマスコットも香水を使用する女性でした。

それなのに、ある日・・・
私をひとり、ボスは階段に呼出して
「お前さ・・・香水くせぇんだよ。みんなもそう思ってるから。」
と、そう言ったのです。

私は怖さもどこかへ吹っ飛び、思わず
「○○さんも香水使ってますよ。
それに私は入社してから毎日使ってきました。
何故今までは言わなかったんですか?
みんなって、誰が臭いって言ってるんですか?」

自分でもびっくりするような勢いで
ボスに向かって本音をぶつけてしまいました。

ところが予想に反して、ボスは小声になってしまい
言い訳を始めたのです。
私はそんな言い訳など聞きたくもなくて
「明日からは少し気をつけます。
でもつけるのはやめません。」そう言って仕事に戻りました。

私の態度は普通じゃありませんでした。
上司にはむかうなんて・・・。

あとになって冷静になると
自分でもあんな度胸どこにあったのかと思うほどです。
私であって、私でない感じです。
でも・・・言いたいことを言ったら、なんだかスッキリしていました。

それ以降、なんだか吹っ切れてしまい
無視する人なんか、あまり気にならなくなりました。
マスコットの指示があったって、私には関係ない。

自分を信じて・・・私はとにかく目の前の仕事を
時間内に終わらせることだけに集中しようと決めていました。

トイレと食事以外はほとんど席に座り、ひたすら仕事に集中。
ダラダラと残って何時間も仕事をしていく女性とは違い
退社と同時にダッシュで事務所を駆け出す私を
応援してくれる人たちが、いつしか増えていきました。
そしてそのことは支社のトップまでもが認めてくれたのです。

ある日、何度となく繰り返されてきた支社の合併が
いよいよ終幕を迎えるという噂が出たことがありました。

そして、そのことがきっかけで
支社の業務分割など、今までとは形態が変わることとなり
それに伴い、私たちの担当する仕事にも変化がありました。

そんな時、私を可愛がってくれていた他部署のボスたちも
ほとんどの方が昇格となり他店へと栄転になりました。

私をマダムと呼んで良くしてくださったボスがおられたのですが
その方のおかげで、あとから後任となって配属された
他部署の新しいボスたちも、私をまったく知らないにも関わらず 皆さん良くしてくださいました。
まるで何も前任と変わらないかのように接してくださり
私はいつも誰かにサポートされている気がしてなりませんでした。

そんなある日・・・
役職でもない、ただの女性事務員である私が
所属転換になるという異例の噂が飛び交い
大きな流れに私は巻き込まれようとしていたのです。
続く...

あふれる想い88...
2008年12月19日

当時、職場では相変わらず日々色々なことがありました。
合併を繰返し会社自体が変化しており
新たな流れに突入していたように感じます。
そして、人事異動も度重なり
ついに私が所属していた支社のトップが代わることになりました。
支社のトップはとても素晴らしい方でしたのでとても残念でした。

新しく異動してきたトップにより
トップに一番近かかった私の所属していた部署のカラーが
今までとはガラッと変わりました。
何もかもが変わりました。

とてもコミュニケーションを大切にする方で
以前のトップは雲の上の人のように遠い方でしたが
新たなトップはとても親近感を感じる近い権威のある方に感じました。

私は受付の業務や席も一番前で入り口に近かったこともあり
トップが毎日のように事務所にきては
私に話しかけてくださるようになっていました。
もちろん他の方にも同じように優しく接しておられました。

しかし、このトップの存在が私の上司には負担になっていたようで
上司の私への嫌みは増えていきました。
新しく入社したマスコットの彼女のことは
相変わらず目の中に入れても痛くないほどの
特別な待遇で、それだけがボスの救いだったのかもしれません。

そんな中、ある日・・・
上司の部下にあたるリーダー的な方から呼出され
「子供の件も落ち着いてきたし、来期から社員に戻されますよ」と言われたのです。
パート扱いに格下げされて一年後のことです。

私はやっと認めてもらえたようで心の底から喜びました。
やっとみんなと公平なラインに立てる気がしました。

ところが、このリーダーは味方なのかスパイなのか解らないところが多々あり
「いゃあ。今まで大変だったね。扱い方がひでぇよな。
この前さ、来年度の事業計画立ててた時のことなんだけど
パートの欄に1って数字があった訳。
それをみたボスが俺に
オイ、なんだ。このパート1ってのは。間違ってるから訂正しろって言ったんだよ。
だからボスに、これは○○さんのことですよ。
そう言ったんだよ。
そしたら、あいつパートのままだったっけ?って言ってさ。
ほんとひでぇよな。忘れてたんだぜ。」

「・・・・・・・・そうですか。
忘れてたんですか・・・・・・・。」

○○というのは、もちろん私のこと。
どうやら、私をパートに格下げしたことをすっかり忘れたまま
一年間業務をさせていたということをリーダーはボスに教えてくれたようです。
なんだか複雑でした。

でも理由はどうであれ、その時の私は
また社員として働かせてもらえることに心から感謝の気持ちでいっぱいでした。

少しずつ月日が経つにつれ
他の部署のボスたちが声をかけてくれるようになりました。
フロアの階数も違うのに私と話をする為だけに来てくださったり
皆さんがとても良くしてくださいました。

そして、私に直接仕事を依頼するようになってきて驚きましたが
私のボスはあの意地悪おじさんだったので
ボスに了解をもらってからでないと引受けることができませんでした。

何故私だったのかはわかりませんが
入れ替わるようにして、どんどん仕事を頼まれるようになりました。
自分の部署の仕事以外に、他の部署の頼まれごと。
でも・・・私は他の女性社員と違い
保育園のお迎えが毎日あるので、いつも時間どおりに退社し
残業はほとんどできませんでした。
それでも、頼まれた仕事はすべて時間内にクリアできたのです。
私のひとりの力では、到底無理に思える量でも
すべてがクリアできていました。
私は誰かに守られているような・・・
いつも見えない存在をどこかで感じていました。

どんどん仕事を完璧にこなしていくことで
私は他の部署から、いつしか頼りにされる存在になっていました。

そして、そのことが結果的に益々上司の意地悪さに火がつき
ついには私に対するイジメが始まったのです。
続く...

あふれる想い87...
2008年12月18日

皆さんは一年間に殺処分を受ける犬の数を知っていますか?
日本だけで約20万匹以上の犬が命を絶たれているのです。
この現実をどう感じますか?

みかんの出生も、ヨークの出生も私は知りません。
みかんは首輪もしていない放浪犬でした。
ヨークは生後間もないケガをした捨て犬でした。
私はこの子たちと運命的な出逢いをし
家族として迎え入れましたが
「離婚」という自分の身勝手さから面倒を見ることができず
両親に預け育ててもらいました。
毎週のように顔を合わせ
行く度に撫でたりブラッシングしたり、おやつをあげたりして
可愛がってはいたものの、自分で飼うこと自体はできなくなりました。

そんな時に起こったみかんの行方不明。
みかんとヨークは狂犬病の注射も済ませ
犬の登録もしており、首輪には迷子札まで付けていました。
離婚するまでは・・・。

実家に預けた時、新しい首輪やリードを買ってお願いしたので
その時に登録証などは外したままになっていたのです。
しかも、引っ越してきた際に
荷物の中に入れてしまいどこにあるかわからなくなっていたのです。
私は自分のことで精一杯で
二匹を預けた際にするべき義務を怠ってしまっていました。
もし、実家に預けたあと登録の変更や
以前のように迷子札を付けてあげていたら
こんなことにならずに済んだはずです。

首輪を掴まれ監獄のような檻から
奇跡的に救出されたみかんは
外に出てもブルブル震えが止まりませんでした。

私のところに駆け寄ってきたかったのだと思いますが
檻の中の糞尿により異臭を放ち
サラサラだった身体の毛はすっかり汚れていました。

私は娘を抱っこしていたこともあり
みかんを抱っこすることはできず
車の後部座席を倒し、新聞紙やタオルで敷き詰めて
みかんを車に乗せたのです。

みかんに「ごめんね。ちょっと待っててね」そう声をかけ
私は娘を連れて、事務所へ行きました。
引取りの手続きをしなければならないからです。
誓約書のようなものにサインをし
引取り料を支払わなければなりません。
そして、職員の方から注意や指導を再度受け引取り完了となります。
担当してくださった方から
「見つかって本当に良かったですね。
あの子は幸せな子です。
ここにきて助かる子は、まずいませんから。」
そう言われ胸が痛くなりました。
施設にきた犬猫を飼い主が探し出せて引取れる確率は
なんと3%なのだそうです。

現実、みかんもあと1日遅かったら
私が連れて帰ることはできなかったのです。
そう思うと本当にゾッとします。

みかんの待つ車へ行き助手席のドアを開けると
みかんがタオルの上に包まっていました。
私と娘に気がつくと顔をあげて
さっきまでの表情とは一転して、瞳には光が戻っていました。
舌をだして、いつもの笑顔をしていました。

娘をチャイルドシートに乗せ、私は実家へと車を走らせました。
車中、みかんの異臭がきつくて窓を開け
「帰ったらシャンプーだよぉ。いっぱいご飯も食べようね」
たくさんみかんに話しかけながら実家へと向かいました。

娘はみかんもヨークも大好きだったので
車の後部座席にいるみかんが気になるようでした。
実家に着いて娘を部屋にあげてから
みかんを車から降ろしました。
そしてそのままお風呂場へと直行。
何度も何度もシャンプーしシャワーで洗い流しました。
タオルで拭いてドライヤーで乾かすと
そこには、いつもの可愛いみかんの顔があります。
異臭も取れ、身体の汚れもすっかりきれいになって
ピカピカになったみかんがいました。
「よかった・・・」本当にそう思いました。

お水やご飯を用意しみかんに食べさせました。
そして、ヨークとごんのところへ連れて行き
再会をさせたのです。
みかんは自分のハウスに喜んでいるようで
その後すぐに眠ってしまいました。
4日ぶりのハウス。
みかんのタオルや毛布。
お水と食事。
みかんは安心したのでしょう。
スヤスヤ眠っていました。
どんなに怖かったことか・・・。
ごめんね。みかん。
続く...

あふれる想い86...
2008年12月17日

初めて訪れた施設は静かな山の中にあり
建物の中からは、たくさんの動物たちの鳴き声がしました。

担当の方が中へ通してくださり
「この中にあなたの犬がいるか探してみてください」そう言われました。
私は娘をしっかりと抱きなおし、中へと足を踏み入れたのです。
通路を挟んで右側には猫、左側には犬の檻がありました。
中には私の想像を遥かに超えた数の犬や猫がいました。

娘はぎゅっと私にしがみつき、その場所を少し怖がっているようでしたが
おとなしくしていてくれ、まるでみかんを一緒に探しているようでした。
担当者の方は私の後からついてきました。

「こちらの入り口付近の檻は1日目だからこの檻は違いますね。
日を重ねるごとに檻を移動させるんです。
そして、5日目にガス室へと移動させ、私たちは致死処分しなければなりません。
だから、よく見てあなたの犬がいないかを確認してください。」
そう説明してくれたのです。

私と娘の姿を見るなり、たくさんの犬たちが檻の柵まで駆け寄ってきて
みんな一斉に鳴き声をあげました。
まるでその声は悲鳴のようでした。

そこにいる犬たちは、ペットとして人気のある犬種もたくさんいました。
どの子もみんな必死で私に何かを訴えていました。
私はその姿を見て、涙が止まらなくなってしまい
日本のペットブームの裏側である現実を痛感したのです。

日にちによって仕切られただけの檻には
この子たちの排泄物がたくさんあって
その排泄物を踏んで臭いがひどくなった身体をした犬たちがいっぱいいます。
でも・・・きっと何日か前までは飼い主と楽しそうに散歩をしたり
美味しいご飯をお腹いっぱい食べたり
どの子も幸せだったのかもしれません。
今は、5日後の致死処分を待つだけとなっているこの子たち。
人間のエゴによって犠牲になっている動物は
人間の言葉を話せません。
犬にも猫にも「命」があるのに・・・。
でもこれが今の日本の現実なのです。

近寄ってくるたくさんの犬たちに私は
「助けてあげられなくて・・・ごめんね」と言いました。
私を見ているたくさんの犬たちの瞳は
みんな泣いているようでした。

隣の檻が保護されてから2日目。
みかんが居なくなってから、その日で5日目でしたが
そのうちの1日は役場で保護されていたので
この施設にきてからは4日目ということ。

一匹ずつ確認しては次の檻へと移動しました。
そして、4日目の檻に辿りつきました。
そこは入り口からだいぶ奥のところに位置し、薄暗い感じがしました。
すぐ近くにはガス室が見えました。

4日目、5日目の檻にくると・・・
犬たちの瞳がまるで違うのです。

その瞳からは絶望を感じました。
この子たちは、みんな死をわかっているのです。

1日目から3日目までの檻にいる子たちは
全員といっていいほど一斉に駆け寄ってきたのに
4日目、5日目の檻にいる子たちは
何匹かが駆け寄ってくるくらいで
どの子も淋しそうに、悲しそうに
隅っこのほうでうずくまって震えていたり
視線を下に向けたまま固まっていたりしています。

私は4日目の檻にきたところで叫びました。
「みかーん」と。

すると、奥のほうから一匹の犬が柵のところへと走ってきたのです。
その犬は・・・みかんでした。
みかんはやっぱりここにいたのです。

4日目の檻にたくさんの犬たちと入れられていました。
私が来るのが、あと1日遅かったら・・・
あと1日遅かったら、みかんは殺処分されていたのです。

みかんは迎えにきたのが私だとすぐわかり
今まで聞いたことのないような声で鳴きました。
すると、そのみかんの鳴き声を聞いた他の子たちも一斉に鳴きだし
さっきまで下を向いていた子たちまでも
柵のところに駆け寄ってきたのです。

担当者の方に「いました。この子がみかんです。」そう伝えると
鍵を取り出し、みかんを檻の中から出してくれました。
そして首輪を掴んで、外へと連れて行ってくれたのです。
私は複雑な気持ちでした。

みかんが見つかって心から嬉しかったのですが
この子たちを救うことはできなかったからです。
本当に心から謝ることしかできませんでした。
「ごめんね。ごめんね。」
通路を歩き、出口の扉を出るまで
たくさんの子たちの視線を感じ
そして、いつまでも悲鳴のような鳴き声が耳に残ったのです。
続く...

あふれる想い85...
2008年12月16日

もともと迷い犬だったみかんは、たびたび脱走することもありましたが
いつも気が済むと数分後、または数時間後には必ず戻ってきて
叱られると思い、ちっちゃくなって身を低くし帰ってきては
私に甘えるのでした。
もちろんその間、私もあとをおったり探し回ったりします。

ヨークは今まで脱走したのは一度だけ。
それは日記にも以前記したとおりのいきさつです。
ヨークは甘えん坊なので、庭で離しても
私の隣にいるか、後ろからついてくるだけです。

みかんとヨークは私の大切な家族でしたが
離婚により知らない土地へアパートを借りて
娘とふたりの生活になった私は
みかんとヨークを引き取ることができなくなってしまったのです。
そのため、実家の両親にお願いし
面倒をみてもらうこととなりました。
実家には「ごん」という名前の犬がすでにいたので
犬が三匹に増えてしまいましたが
両親は、仕方ないと了承してくれたのです。

母との電話でわかった事実・・・
みかんが行方不明になったこと。

私が無性にみかんのことが気になって実家へ電話したのは
このことを直感で感じ取っていたからだったのです。
でもそれは、みかんからのSOSだったのかもしれません。

母に詳しく話を聞くと驚いたことに
行方がわからなくなってすでに3日目だというのです。
「大丈夫だよ。そのうち帰ってくるから」
「ちゃんと探してくれたの?」
「探したけど見つからないんだよ」
「でも3日も帰ってこないなんて、今までなかったよ。絶対おかしいから」
私はみかんを心配する気持ちから
母に怒りをぶつけてしまいました。
「何ですぐに連絡してくれなかったの?
私が電話しなかったら、言ってくれないままだったの?」
もう抑えきれなくなって、私は激しく動揺していました。
いやな予感が頭から離れず
私は娘を連れてすぐ実家へと向かったのでした。

実家へ着くなり娘を母にお願いし、私はみかんの散歩コースを歩き
街中を車でゆっくりと走りながらみかんを探しました。
何時間探してもまったく見つかりませんでした。

すでに夜遅くなっていたので実家へ戻ると
父は私のことを馬鹿だと言い
犬が帰ってこないくらいで大騒ぎするなと怒られました。
確かに自分の犬を二匹も面倒見させてしまい
申し訳ない気持ちでしたが
頼まれた以上は責任もって見て欲しかったです。

翌日、私はお昼休みに実家がある町役場へ連絡し
捨て犬や迷子犬の保護された犬がいなかったか確認しました。
すぐにはわからないとのことで連絡先を伝え、しばらく待つことに。
すると、担当の方から連絡が入り
みかんに特徴のよく似た犬が
いなくなった日と同じ日付に、保護された記録があるとのことでした。
私は少しホッとしました。

ところが、ホッとしたのも束の間・・・
翌日になっても飼い主からの問合せが入らなかったので
役場は保健所に連絡し、みかんの特徴に似た犬を
すでに保健所に引き渡してしまったというのです。

私は身体が固まってしまい、血の気が引いていく思いでした。
担当者からは「もう処分されてるかもしれない」そう言われてしまったのです。

すぐに保健所の連絡先を教えてもらい電話をかけました。
みかんの安否を確認できるまでは諦められなかったのです。

電話をすると男性職員がでました。
数日前、○町役場から引取りした犬のなかで
白い身体にオレンジ色の毛が混じった中型のメス犬はいませんでしたか?

担当者はすぐに調べてくれ「いますね。該当する犬が一匹」と。
私は絶対にみかんに間違いないような核心があり
「明日、絶対に引き取りに行くので処分しないでください」
そうお願いしました。
住所を聞くと、犬猫が引き取られていく先は
筑波山のふもとのほうに位置する笠間市だということでした。
私が住んでいるところからは、3時間近くかかります。
でもそんなこと、どうでも良かったのです。
翌日、私は偶然にも休日になっていたので
保育園を休ませ娘を連れて、笠間市へと向かったのでした。

その場所に着くまでは、ずっと祈るような気持ちで
みかんが私を待っていると信じて、ただただ車を走らせました。

何時間も車を運転し、看板が見えてきたので左折すると
山の方へとあがっていく坂道がありました。
とっても静かな山奥へとどんどん入っていきます。
そして見えてきた看板。
私の鼓動はドキドキしていました。
娘はまだその頃、言葉を話せなかったので
ここに何しにきたのかをわかっていませんでした。

娘を抱っこし、入り口の扉を開けました。
すると私が電話した時に対応してくださった男性らしき人が
事務所から出てきてくださいました。
そして、保護されたたくさんの犬猫がいる建物へと
私と娘は案内されたのです。
続く...

あふれる想い84...
2008年12月15日

どんなに辛いか・・・
どんなに苦しいか・・・

でもそれはすべて自分で
離婚を選択したことにより始まったプロセス。
誰のせいでもない。

いつも・・・
いつも・・・
悩んでは・・・
そのことに辿りつき・・・
結局は自己嫌悪。

両親に弟夫婦、妹夫婦。
みんなは地元で、私は娘とふたり違う土地。
全員で集まっても、それぞれ夫婦が目の前にいて
私には夫がいない。

自分でそのことを選んだにも関わらず
私は孤独で、惨めでした。

全員が笑顔で旅行などを企画しても
私は全然行く気もせず
その時は重荷に感じていたくらいでした。

誰も私の気持ちなんてわからない。
わかるはずなんかない。
心の中ではそう思っていました。
本当にいやな女だったと思います。

ある日・・・
部屋の片付けをしている時
育児記録ノートと妊娠記録ノートを見つけました。

妊娠できた時は、何年も経ってから授かったこともあり
よっぽど嬉しかったのか、事細かにびっしりと書いてありました。

次に育児記録ノートを見ました。

すると・・・

ちょうど元夫と別居をした頃から
ノートは白紙のままだったのです。

ノートがあることさえ
その日まで忘れていました。

最初の頃しか記録されていない
娘の育児ノートを見ながら
私はただ泣きました。

同じように母子手帳も
ある時期からは空白のまま。

私は母親失格だ。。。
泣きながらそう思いました。

どんなに泣いても
もう過去は取り戻せないのです。
私は毎日のように
隣で眠っている娘の寝顔を見るたび
ごめんね・・・と謝り
泣く日々を過ごしていました。

離婚後、何度かの恋愛もありましたが
どれも本気にはなれず
私は自分の心の隙間を満たすことはできませんでした。

そんなある日の夜・・・
ふと、実家にいる犬のみかんのことが気になりました。

何故だかわからないけれど
無性に気になって仕方がなかったのです。

別居や離婚によって面倒をみれなくなってしまった
私の犬、みかんとヨークの二匹は
実家の両親にお願いしていました。

父から勘当を許してもらってからは
毎週実家に行っていたので
みかんとヨークとは会えていました。

いつも、私と娘が帰ろうとすると
自分たちも一緒に連れて行って欲しいと二匹は鳴いているようでした。
私はそのたびに、ごめんね・・・
そういいながら車に乗り込んでいたのです。
しかし、時が経つにつれみかんもヨークも
自分たちはもうママと一緒にいられないんだと悟り
二匹はただおとなしく私たちを見送るだけとなっていったのです。

何故こんなに、みかんだけが気になるのかわからないまま
私は実家に電話をし、みかんとヨークの様子を母に聞きました。
数日前にも二匹には会っていましたが
「みかんとヨークは元気?いい子にしてる?」と母に聞きました。
すると母の反応がイマイチで、何だか私は胸騒ぎがしてなりませんでした。
そして母から信じられない一言が告げられたのです。
「みかんがいなくなっちゃったんだよ」
続く...

あふれる想い83...
2008年12月13日

娘は新しい保育所にも慣れ
風邪をひいても以前のように入院するようなことはなくなりました。

パート扱いにはなったものの、必死で毎日仕事をしていたおかげで
だんだん周りの人達にも認めてもらえるようになり
仕事も短期間でマスターすることができました。

私の所属していた部署は、会社の事務的なことすべてを取り仕切る要。
そして入社当時は、全国にある支社のうちのひとつだったため
業務的には本当に大変な部署でした。

会社の行事も半端ではありません。
某有名球場を貸切での運動会や
芸能人のコンサート会場になるような場所での新年会など
支社全体のイベントともなるともの凄い経費が動いていました。

私にとってはすべてが初めてのことばかりだったので
とても新鮮でもあり、規模の大きさに驚きを隠せませんでした。
所属していた部署は、通常業務の他に
そういったイベントの企画や進行まですべてを担当していたので
私たちも司会やレポーター役、スタッフなどを任され
普通ではできないような経験もさせていただけました。
すべてが私にとって、貴重な経験となりました。

娘が入園して1年が経った頃・・・
春になり進級しました。父兄の間で役員を決める時期。
私は仕事をしているだけでなく、母子家庭だったので
正直なところ最初は絶対に役員は引受けたくない気持ちでした。
ところがよく考えてみると、その保育所は
働いている両親をもつ子供
もしくは育児が困難な状況にある子供しか入園できなかったのです。
確かに私も大変だけど、他の方も決してらくではない状況。

寡婦で低所得者ということで
我が家は保育費を免除していただいていたことを思い出し
何かお役に立てればとの気持ちから
思い切って役員を引き受けることにしました。
それは結局、保育費を払うようになっても
卒園するまでの五年間続けました。
何らかの形で私はお役にたちたかったのです。

娘のことで実家のみんなにはサポートしてもらえたものの
私は日々、この頃会社のストレスが大きくなっていました。
感謝の気持ちはあるのに、相変わらず両親には心を閉ざしたまま。
私が週末出勤の時などは弟夫婦が
娘をお出掛けに連れて行ってくれたりしました。
ふたりは自分の子供のように可愛がってくれ
いつも写真を撮ってくれたりしました。
弟夫婦よりも半年ほどたって、妹も結婚し
妹夫婦も同じように娘を可愛がってくれました。
どちらも、まだ結婚前から
娘を大切にしてくれていたので
母子家庭とはいえ、私の娘はたくさんの人に愛され
たくさんの人の手を借りて、温かく育てていただくことができたのです。

心が折れていたり、閉ざされている時というのは
ちょっとしたことに敏感になったり
繊細で傷つきやすくなっているものなのです。

何気ない一言が深く心に突き刺さったまま
笑顔が消え、会話もしたくなくなり
態度も閉じた感じで、家族から見れば
どこか愛想がない感じだったかもしれません。
何を考えているのかわからないように
私は家族の目には映っていたのだと思います。

休日、娘を迎えに実家まで行くのですが
信じられないほど休日のたびに
私は体調を壊し、偏頭痛や吐き気
時には高熱もだし、予定の時間には
迎えに行けず遅れて迎えに行くことも増えていました。
それを説明する会話さえまともにできなかったため
心のコミュニケーションがとれないこともあり
私は弟に怒鳴られることも度々ありました。

弟は娘のことを思う気持ちから
私に感情をぶつけてきていたので
私は心の底ではすべて理解しており
弟が怒っていることは無理もないと思っていました。
しかし、いざその感情が目の前にやってくると
普段押さえている私の感情の扉も開いてしまい
「もう私にかまわなくていいよ」などと本音ではない
強気なことを言ってしまったりして
弟を怒らせ胸ぐらをつかまれたこともありました。
私たち親子のせいで、弟夫婦が両親ともめることもあり
私はもう何もかもが自分のせいに思えて仕方なかったのです。
どうしたらいいのかもわからず
私は自分を責めることしかできなかったのです。

弟夫婦にも感謝の気持ちでいっぱいなのに
私は素直に自分を出せないでいたのです。
本当に苦しかった。。。

みんなに・・・
申し訳ない気持ちでいっぱいのまま
私は何年も心の扉を開けれなかったのです。
続く...

あふれる想い82...
2008年12月12日

受け入れるしかない・・・
どんなことを言われても我慢するしかない・・・
私はそう思いました。

社員からパートになるということは
月給から時給になるということ。
社員と同じ条件、勤務形態のまま
お給料が一気に下がるということ。

上司は、「子供がいるから保険証はそのままでいいや」そう言いました。
社長でもないのに、この人の一言ですべてが決まってしまう。
この人にはその権限が与えられているんだ・・・。
悔しいけど、それが現実なのです。

落ち込んでいる時、嬉しいこともありました。
娘が一歳半になったことで町の保育所に入所できることになったのです。
しかも、その保育所は自宅から歩いて5分ほどの距離。
家にいても保育所の子供たちの声が聞こえてくる距離でした。
この土地に引っ越してきたばかりの時
すぐ目の前にある保育所に入ることができないもどかしさを
私は何度も味わった日を思い出していました。

それまでの所は無認可の託児所ということで
家賃とそう変わらないほど保育料が高かったのですが
町の保育所では、寡婦の低所得者ということで免除されたのです。
信じられませんでした。
救われた気がしました。

約八ヶ月お世話になった託児所を退園し
こうして娘は近所の保育所へと入園したのでした。

毎朝が劇的に変わりました。
時間に余裕ができた分、私と娘の睡眠時間が増え
一緒に過ごせる時間も少しだけですが増えたのです。

8:30~17:30という勤務時間で働いていたので
延長保育18時までという時間にはいつもギリギリでした。
娘のお迎えは通園していた間
90%くらいの確率で我が家が一番最後でした。

もちろん残業などできません。
17:30とともに席を立ちIDカードをきってダッシュで駐車場まで。
これがいつもの私のパターンでした。
私が残業していたり、ゆっくりと駐車場まで歩いている時は
娘が実家にいる時だけです。

土日に出勤しなければならない時は
金曜日の夜に実家へ行き娘を預け
私はその時だけ、ひとりの生活になりました。
仕事が終わると制服のまま実家に行き
夜ご飯をご馳走になり娘を連れて帰宅。
家族の協力のおかげで
いつしかこういったパターンを作ってもらうことができました。

唯一・・・金曜日の夜だけが私だけの時間。
でも、ひとりになると一気に孤独が私を包み込むのです。

実家から埼玉へ帰る時、大きな川の上に架かった橋を渡るのですが
橋の中心からは千葉県になります。
そしてさらに数キロ進むと、二個目の橋があり
この橋の中心からは埼玉県になります。
でもこのことを知ったのはたった二年前です。

私はそれまで何を考えて同じ道を何度も通っていたのか・・・。

目に映るきれいな景色も
私の目にはちゃんと見えていなかったのかもしれません。

実家から家に着くあいだ・・・
私は何度となく涙を流しながら
よく車を運転していました。
それは娘を置いてきた金曜日の夜のこと。

泣いても・・・何も変わらない。

生活がらくになるわけじゃないし
社員になれるわけじゃない。

白馬に乗った王子様が
私の傍にやってきて助けてくれるわけじゃない。

何にも変わらないけど
ただ涙が溢れて止まらなかったのです。

毎日会社と保育園と家との往復。
たまに行くのはスーパーや病院、そして実家だけ。

会社の同僚は歳も変わらない女性たちでしたが
独身だったのでみんな自由。
買い物へ行ったり、ご飯を食べに行ったり
飲みに行ったりと楽しそうでした。

でも私はみんなとは違う・・・。
いつも割り切るようにしていました。

私にはこんなに可愛い天使がいる。
娘の笑顔は天使そのものです。

「他は己ならず」(た は こ ならず)
この言葉に私は救われていました。

他の人は自分とは一緒ではない。
だから比べる必要なんてない。
自分は自分なのだから。

そういった意味合いがあるのだそうです。

私は母親なんだ。
離婚も自分が決めたこと。
誰のせいでもない。
頑張らなくちゃ。

消えない不安や恐怖は多々ありましたが
暖かな光を目指して・・・
幼い娘と私は歩んでいったのです。
続く...

あふれる想い81...
2008年12月11日

私の心の中は「助けて・・・」そう叫んでいたかもしれません。
離婚してたった3ヶ月の間に三度も娘を入院させてしまい・・・
理由はなんであろうと、私は自分の不甲斐なさを感じ自分を責めました。

精神的な限界を感じた私は実家の母へ電話をし
娘の入院を伝えました。
母に娘が入院したことを連絡したのは初めてでした。
まだ母は仕事をしていたので、私は少し気が引けました。
来てもらいたいと頼んだところで、もし断られたら・・・
母の返答が怖かったというのもあるかもしれません。

電話して母に事情を話すと、一旦電話を切って
お父さんと相談してからかけ直すからと母は言いました。
数分後、母から連絡があり休みをとってくれるとのこと。
更にこの時、弟と数ヶ月前に結婚したばかりのお嫁さんも
一日だけなら見られるからと言ってくれているとのことでした。
こうして母と弟のお嫁さんのふたりが
娘の付き添いとして茨城から来てくれることとなったのです。
そのおかげで、三回目の入院では
私は会社に報告する必要がなくなり、欠勤もせずに済みました。
病院と会社の往復生活は大変でしたが
ふたりの協力を得ることができて私は幸せを感じました。

弟のお嫁さんは私の事情を知っていたので
何かと心配してくれていました。
娘のこともとっても可愛がってくれ、娘も彼女に懐いていました。
まだ結婚したばかりだったにも関わらず
私たち親子を助けてくれた彼女に、私は心から感謝していました。

みんなの協力のおかげで四日後無事に退院し
娘はすっかり元気になりました。
そして、この時から退院後の診察日なども
母や彼女が休みの時などは、私の代わりに
娘を連れて行ってくれることが増えました。

娘の病気により私たち家族が結束していった気がしてなりません。
或いは私の身体を休ませるためだったり・・・
そういった何らかのタイミングでプロセスがあったように感じます。

実家とのバランスも良くなった頃・・・
私の知らないところでは着々と会社では何かが進められていました。
そしてそれは現実化したのです。
何と求人募集でした。

大きな期待をして採用した離婚調停前の子持ち女である私は
予想を大きく裏切り、例え子供のこととはいえ欠勤や早退の常習。
それまでの会社の風潮を一新するかのように
前例のない採用を自分がしてやったんだと豪語していた上司は
言いなりにならない子持ち女の私を目障りに思い始めていたのです。
新しく自分のマスコットが欲しくなったらしく
急遽、募集をすることにしたのでしょう。

三ヶ月前、59人も不採用にしておいて・・・。
また何十万もの経費をかけて広告を打出すとは。

会社の方針で社員をクビにはできない上司は
私を辞めさせたくて、あの手この手で嫌味を繰り返していました。

そしてついに募集をかけ、ひとりの可愛い女性を採用したのです。
とても可愛くて背が低く、男性が守ってあげなきゃと思える人。
バイリンガルで英語も話せ、そして歳が若い!
上司は終始機嫌がよくなり、この女性をとても気に入っていました。

その様子を見ていた同僚が私に一言いいました。
「あなたの時もこんな感じだったんだよ」と。
面接二日目で採用する女性を決定していたにも関わらず
最終日に面接にきた私を見て、この同僚は
「この人に変わるかも」そう思ったと教えてくれました。

目の前にいる上司は意地悪おじさんに豹変していましたが
でも・・・この人のおかげで、私は安定した職に就くことができ
こうして娘との生活を守れているんだよなぁ・・・。
そう思ったら、意地悪おじさんの上司に
たくさんの感謝がうまれました。
私の心は「ありがとう」でいっぱいなりました。

ところが・・・
それから数日後、私は上司から呼出され通告されてしまったのです。
「お前は明日からパート扱いだから」と。
続く...

あふれる想い80...
2008年12月10日

いとこのお兄ちゃんのおかげで父からの勘当が解かれ
自由に実家へ出入りすることができるようになり
私と娘は気持ちがラクになりました。
人見知りが激しく、特に男性が苦手だった娘も
実家の父や、私の弟と毎週のように顔を合わせるようになって
少しずつ慣れて人見知りも減ってきました。

託児所へ子供をお願いするにあたり
どうしても避けられないことがありました。
それは病気です。
これは幼稚園であっても、保育園であっても同じこと。

娘が無事に退院したあと、今度は重症なほどの水疱瘡にかかりましたが
すっかり完治し集団生活にも慣れた頃・・・
また子供たちの間で風邪が流行りだしていました。

私は娘の体調管理には気をつけていたので
水疱瘡以降、風邪を引かせるようなことはありませんでした。
ところが、また託児所から会社に電話があり
娘に熱があるというのです。

集団生活の場にお願いしている以上は
確かに病気がうつることは避けてとおれません。

でも、以前の点滴中でのことが
私の中でフラッシュバックのように思い出されてしまい
娘が病気になるたびに、恐怖がよみがえってくるのでした。

もう以前のようにはしたくない一心で
私は上司にすぐ報告し、仕事がきりのいいところまできたら
勤務時間内であろうと早退させてもらえるようにしました。

上司の態度はとてもわかり易く、私の胸に突き刺さるような
冷たいエネルギーを感じましたが、私にとって
上司の態度よりも娘の身体のほうが重要だったのです。

朝まであんなに元気だったのに・・・
迎えに行った時にはまた娘はぐったりしていました。
熱でぐったりしているうえ、咳も出ていました。
私は制服姿のまま娘を病院に連れて行きました。
2ヶ月前に起きた熱性痙攣のことを主治医に伝えると
ひどくなる前に大事をとって入院させましょうと言われました。
その時の病名は風邪からの気管支肺炎でした。

入院かぁ・・・また休まなくちゃ・・・。
私は上司に、報告の電話をしなければなりませんでしたが
抵抗や拒否の感情が出てきて、なかなか電話できずにいました。
上司に遅刻や早退、欠勤などの連絡をすることさえ
私には強いストレスになっていたのです。

でも、報告は社員としての義務だと自分に言い聞かせ
娘が入院になったことを電話で報告しました。

二度の入院により金銭的にも余裕がなくなり
離婚前に折半した貯金は底をつきかけていました。
自分の身勝手で離婚した私は
実家から金銭的な援助は受けませんでした。
いつも生活はギリギリの状態。

私は埼玉という知らない土地に引越しを決めた時
ひとつの条件を持っていました。
家賃は払える範囲より、少し上の所に住むということ。
低い家賃の場所のほうが生活は確かに楽ですが
そういった場所は普通の暮らしをしているすべての人が対象になります。
でも、ある程度の家賃の場所だったら
その金額を家賃としてかけられるだけの仕事をした人で
ある程度の安定がある人なのではないか・・・私はそう思いました。
そういったトータルで私は考え
安心を買うために給料の3分の1を家賃代にあてていたのです。
この時の読みは本当に正しかったと、今になってとても実感しています。

予定外の入院はかなりの出費でしたが
点滴のトラウマを抱えながら不安な気持ちで
家にいるよりも、娘と一緒に病院にいられるだけで私は安心できました。

娘は順調に回復していました。
咳もひどくなる前に入院したおかげで治まりました。
入院して四日後には無事退院。
家に戻れたことで娘は大喜び。
ところが、また少し元気がなくなりだし
ついには退院3日後、食べ物を吐き同時にオムツから漏れるほどの下痢が。
上からも下からも出てしまったのです。
絶対におかしいと思い病院に連絡をすると
すぐ来るように指示されました。
緊急に診察していただくと嘔吐下痢症と診断されました。
気管支肺炎で入院した際、もしかするとウィルス感染が院内で起こった可能性があり
院内感染かもということで再入院。
そのことについて病院からは何も言われませんでしたが
看護婦たちは私たち親子を気の毒そうな目で見ていました。

退院したばかりで再入院・・・。これで三度目の入院。
また会社を休まなければならないなんて。
私は精神的に限界がきていました。
そして、母へ電話し初めて助けを求めたのでした。
続く...

あふれる想い79...
2008年12月07日

生まれて一年にも満たないうちから
娘を集団生活の場へと預け
先生方に保育していただいている以上は
どうしても避けて通れない現実。
そのひとつに病気がありました。

仕方ないとは思っていても
仕事をしていると看病するためには休みを貰わなければならず・・・
そうすると、どうしても会社に迷惑をかけることになってしまう。
そのことは精神的な負担になります。

勘当されていた私は、娘が入院したことを
実家の両親に言うことができませんでした。
しかし、着替えをとりに帰ったり
私自身もシャワーを浴びたりしたかったので
急遽、私は妹に連絡し助けを求めたのでした。

妹は有休をとって駆けつけてくれ
私が家に行っている間、娘のそばに居てくれました。

顔中ヘルペスが吹き出ていた私を見て
妹は驚いていました。

この時は本当に妹が来てくれて助かりました。
やっぱり、ひとりで子育てをするのは
大変なことなんだと私はあらためて実感したのです。

数日後、退院。
1997年1月11日でした。

娘が退院してからも、私はヘルペスだらけの自分の顔と
娘の体調がまだ心配だったこととで会社を休んでいました。

ところが、ある日上司から連絡があり
電話をとった瞬間、私は直感で何だかイヤな感じがしました。
すると、その勘は当たっており
明日会社に来るようにとのことでした。
「もしかして・・・クビ?」そのことが一瞬頭をよぎりましたが
もしそうであったとしても受け入れるしかないと思いました。

仕方なくまた託児所へ娘を預けて私は会社へ・・・。
顔中にできたヘルペスはまだ完治しておらず
化粧したところでとても隠せる状態ではなかったので
出勤するのはとっても気が引けましたが、仕方ありませんでした。

何を言われるか私は不安でしたが
上司や同僚に、休んでしまったことの謝罪をしたり
現状の報告を済ませてから仕事に戻ろうとしました。
すると、久しぶりに出勤した私の顔を見るなり
面接のときからあんなに良くしてくれていた上司が
今までにない冷たい視線で一言「ひどい顔だな」と言いました。
確かにそうでした。
でも・・・娘の心配をしてくれる訳でもなく
いきなりひどい顔だなとは。
しかし、私は何を言われても我慢するしかありませんでした。

会社の新年の行事として、数日後に新年会が予定されていました。
そして、その新年会は各ブロックが集合するため
3,000人ほどの社員が集まるものでした。
後日聞いたのですが、私を面接の時から気に入ってくれていた上司が
本当はこの新年会で、新人の私を抜擢し司会をさせたかったのだそうです。

しかし、娘の入院と同時に私は何日も欠勤になり
戻ってきたと思ったら、顔中ブツブツの最悪な顔。
周囲の人に、「あいつは失敗だったかも」とぼやいていたそうです。

本人から聞いたわけではありませんでしたが
とてもショックでした。
この時の新年会は東京ベイのホテルで行われ
芸能人のMAXがゲストでライブをすることになっていました。

私はこの時の新年会自体を結局辞退しました。
娘が退院して間もなかったので
とてもそういう気分にはなれなかったのです。
もちろん自分の顔のこともありました。

その後ヘルペスは完治するまで一ヶ月以上かかりましたが
ようやくキレイに治りました。

娘も元気になってきたし、また頑張ろう。
そう思っていた矢先・・・
翌月、今度は娘が水疱瘡にかかりました。
託児所で流行ってしまったらしく
順番に次々と子供たちがかかり、そして最後に
私の娘がとうとうかかってしまいました。
最後だったことで娘の水疱瘡はかなりの重症。
病院の先生にも「こんなにひどい子はみたことない」と言われてしまいました。

私の頭をよぎったこと・・・それは
「また会社を休まなくちゃならない」でした。
私は最低です。
娘の心配ももちろんありましたが、自分の心配を真っ先にするなんて。
水疱瘡の間は託児所に預かってもらえないのです。
本当に困りました。
どんなに困っても、答えはひとつ。
休みをもらう。
ただそのことだけでした。

病院の帰りに会社へ電話をし上司へ報告しました。
言葉では「了解」と言ってくれましたが
私にはわかっていました。
怒ってるを通り越して呆れてる。
「またかよ」というエネルギーが伝わってきました。

私は娘が病気することに敏感になりました。
自分の体調はどうでもよかったのです。
私は我慢できますから。
たとえ39度の熱があっても
自分の体調が悪いことくらいでは休みませんでした。
でも・・・娘のことは別です。
だからこそ、面接でちゃんと伝えたのに・・・。
私も社会を知らなさ過ぎでした。
甘かったのです。

娘を抱えた私を心配して、母が親戚の人をつかって
父と私を仲直りさせようとしているようでした。
いつも影で動く母親。
本当は感謝でいっぱいだったのに
私はまだ素直になれずにいました。

私のいとこにあたる年上のお兄ちゃんが
離婚に至った経緯を聞いてくれたり
父に勘当されたことなど、私からすべての話しを聞いてくれました。
そして、「この数ヶ月ひとりで大変だったな」と言ってくれました。
私はその言葉に救われたような気がしました。
「一緒に謝りに行ってやるから、仲直りしたほうがいいよ。
それは娘のためにもね。」そう言われました。
私はすでに疲れきっていました。
ガリガリに痩せ、痩せているというよりやつれていたのかもしれません。

次の休みに一緒に実家へ行くことを約束し
後日、私は父に謝罪したのです。
生まれて初めての土下座でした。

父に「勝手なことばかりして・・・申し訳ありませんでした」と
土下座して、私は謝ったのです。
でも、本心は謝りたくなかった。。。。
悔しかった。。。。
「娘のためにも・・・」そう言ったお兄ちゃんの言葉が
私には忘れられなかったのです。
そして一緒にお兄ちゃんも頭を下げてくれ謝ってくれたのです。

すると父は「自分の子供を可愛くない親なんていないんだ」そう言いました。
その父の言葉は以外でした。
一緒にお兄ちゃんがいてくれたからかもしれませんが
父が優しく許してくれたのです。
そして「いつでも孫は見てやるから」と言ってくれたのです。
見てくれるとは言っても、母はまだ仕事をしていたので
私の都合のいいようにはいきませんでしたが
それでも、ようやく家族のサポートを得ることができ
埼玉と茨城とで離れているとはいえ
娘をみんなの協力で育てていけることになったのです。
それは実家を出てから4ヶ月ぶりの嬉しいことでした。
続く...

あふれる想い78...
2008年12月05日

左腕にして欲しいと私が伝えたにもかかわらず
娘は右腕に点滴をされていました。

ウトウトしながら、無意識で指を口にもっていく娘は
右腕が点滴のせいで思うようにいかないことに気がつきました。

何度も何度も、娘は口元に親指を持っていこうとしましたが
右腕には針が刺さり固定されていて指が口元までいきません。
そしてついに、娘は泣き出してしまったのです。

その泣き声を迷惑がるかのように
他のベッドで点滴を受けていた人たちの中には
咳払いをわざと大きくする人もいました。
私は申し訳ない気持ちでしたが
針を勝手に抜いて、娘の腕に刺しなおすこともできませんでした。

だんだん娘の泣き声は強くなるばかり。
看護婦さえ、ちゃんと左腕に点滴をしてさえくれれば・・・
私はそう思っていました。

娘をなだめてなんとか落ち着かせようとしましたが
泣いたことで熱がさらにあがってしまい
やがて泣き声がピタッと止みました。

そして次の瞬間、娘は私の目の前で突然ひきつけを起こしてしまったのです。
娘の身体は激しくピクッピクッと痙攣(ケイレン)を起こし
目は白目になっていました。

そして呼吸が止まり、チアノーゼを起こして
ほんの数秒のうちに、顔が紫色へと変色し
全身から血の気が引いていきました。
人間の顔が肌色ではなく紫色になるなんて・・・。

私は身体が硬直し何にもできませんでした。
『イヤーッ・・・・・・・・』
私は出したことのないくらいの声で絶叫していました。
泣き叫んでも娘の意識は戻りません。
さっきまでしていた迷惑がる咳払いも止まり
処置室はしーんと静まり返っていました。
看護婦は娘の点滴を終えるとさっさとどこかへ行ってしまったので
そこに病院の関係者は誰もいませんでした。

私はベッドのそばにあった電話の受話器を泣きながら手に取り
うっすらと聞いていた会話を突然、思いだしました。
医師が看護婦に言っていた内線番号のことを。
私は無我夢中で番号を押しました。
すると、診察してくれた医師がすぐに出てくれ
私は「早くきてー呼吸が止まっちゃったー」と泣きながら叫びました。
異常な様子を感じた医師は慌てて駆けつけました。
そして、目の前の娘をみて絶句。

すぐに人口呼吸(マウストゥマウス)をしたり
胸をガンガンと両手で押しはじめたりしました。
目の前にいる娘の小さな体が何回もガンガン押されては起き上がり
それでも呼吸が戻らずに横たわったままでした。
一瞬・・・私は状況がまったく解らなくなりました。

ただ泣くことしかできませんでした。
ただ叫ぶことしかできませんでした。

でも、しばらくすると・・・
娘の弱い泣き声が少しだけ聞こえました。
顔色もゆっくりと戻ってきました。
安心からか、私はその場に泣き崩れ
全身の力が抜けてしまいちゃんと立っていられない状態になってしまいました。

そして落ち着いてから、意識が戻った娘を抱きかかえ
私はまた大声で泣いてしまいました。

人間って・・・
こんな一瞬で生死が決まってしまうんだと実感しました。

とっても怖かった。
急に怖くなってたまらなくなった。

怖くて・・・
怖くて・・・

私は身体の震えが止まらなくなっていました。
ひとりで・・・
娘の命を守っていく自信が、急になくなってしまいました。

もしも、そばに誰かがいてくれたら・・・
もしも、夫と離婚してなかったら・・・

私は恐怖のあまり、突然弱い気持ちになってしまいました。

そして、娘をこんな目にあわせてしまって・・・
『私のせいだ。離婚なんかしたからだ』
何度も・・・
何度も自分自身を責めました。

本当につらかったです。

私がやっと落ち着きを取り戻したのを見て医師はこう言いました。
『お母さんの方が重症ですよ』 と。

娘の呼吸が止まった瞬間、絶叫したことで・・・
そのたった一瞬の絶叫だけで私の顔中には
隙間がないほど大量のヘルペスが吹き出ていたのです。

そして、その顔中にできたヘルペスは尋常じゃないほどでした。
あとで鏡を見て自分でもびっくりしました。
でも、その時は自分の顔なんかどうでもよかったのです。
自分の顔のことなど、考える余裕が私にはありませんでした。
娘のことで頭がいっぱいで・・・。

こんなことになってしまい、私は気が動転していました。
急遽、娘は大事をとって1週間ほど入院することになってしまったのです。
身寄りもなく、近くには知っている人がひとりもいない。
父からは勘当されてるし・・・。
これからどうしたらいいのか、私はわからなくなっていました。

入院した娘を看病しなければならなくなり
私は入社したばかりの会社にすぐ連絡をし
1週間ほど休みを頂いて病院に寝泊りしました。

呼吸が数分止まったことで心配されていた脳への影響は見られず
大きな後遺症などもないことがわかりました。

医師が夜、病室を訪ねてくれ私の話を聞いてくれました。
泣きながら点滴の話しをすると、医師は驚いており
そして看護婦の代わりに謝罪してくれました。

この日の出来事は、今でも忘れることができません。
目の前で・・・
娘の命が終わってしまうかもしれないと感じたあの瞬間のことを。
続く...

あふれる想い77...
2008年12月04日

幸せそうな彼。
私は少し肩の荷が降りたような気がしました。
そして、心から彼の幸せを祈りました。

彼が調停で得た権利である、月1回の娘との面会を放棄したのは
すべて彼女のためでした。

毎月、娘や保護者の私に会うことは彼女が嫌がるから。
こんなバツイチの俺と付き合ってくれてるんだから、大事にしたいんだ。
彼はそう言っていました。

根は優しい元夫。
相手が私でなかったら、この人はもっと幸せだったんじゃないかな。
私はそう思いました。

娘とふたりの生活が本格的に始まり
もうすぐ怒涛の1996年が終わろうとしていました。
そして1997年 仕事始めの翌日・・・
会社に一本の電話が入ったのです。
それは、娘を預けていた託児所からでした。
娘が熱を出しているという連絡。
終業時刻までわずか1時間あまりだったということと
入社して間もなかった為どうしても気が引けてしまったことから
私は上司に「早退させてください」の一言が言えませんでした。

娘のことは当然心配でした。
生まれてから娘は病気らしい病気はしたことがありませんでした。
本当はすぐにでも、飛んで行きたかった。

とにかく、託児所の先生に事情を話し
仕事が終わり次第すぐに伺うことを伝え、電話をきりました。
娘のことが気がかりでソワソワしてしまい
仕事になりませんでしたが、時間までなんとか待ちました。

時間と同時に私は席を立ち、駐車場の車まで走りました。
そして、託児所まで必死に車を走らせました。

離婚前・・・娘は毎日、専業主婦だった私にべったりの生活でした。
そんな生活から一変して、知らない保育士のおばちゃんに預けられ
知らない子供たちの輪に入れられる生活になったのです。
まだ授乳期中の赤ちゃんです。
きっと、私の想像以上に娘の抱えたストレスは大きかったのかもしれません。

託児所に着いた頃には40度近くまで熱があがっていました。
今までに見たこともない娘の様子。
抱きかかえた娘はすでにぐったりしていて
身体は熱のせいで熱く、顔は真っ赤になっていました。

娘を助手席に乗せ、一刻も早く病院へ行かなければと思い
制服姿のまま慌てて病院へ向かいました。

隣にいる娘を見て私は涙が止まりませんでした。
私のせいだ・・・。そう思いました。
娘に何度も謝りました。
ごめんね。
ごめんね。

1歳になったばかりの娘は、声を出すこともできず
ただぐったりしていました。

病院に着くと少し前に診療時間は終わり
夜間診療に切り替わってしまっていたのですが
先生や看護婦さんはまだ何人か残っていました。

すぐに医師が診療してくれましたが
『ただの風邪』とのことでした。
医師は点滴をするよう看護婦に指示し
「何かあったら内線○○番にかけて」と言い残し、その場から姿を消しました。

点滴をすることになり看護婦が娘を連れて行きました。
娘は熱にうなされながらも必死で泣き叫んでいます。
母親として、このような状況はとても耐えられませんでした。

診療時間が過ぎてしまったので
そこに居た看護婦たちは帰りたかったようでした。
年齢からするとベテランという感じだったのに、その態度は私を居づらくさせました。

急患としてやってきて、時間が過ぎても診察してもらったことには感謝しています。
しかし、看護婦にあからさまに嫌な顔をされ
ベチャクチャおしゃべりしながら娘に点滴をしようとしている姿に
少し腹が立ちました。
でもぐっと我慢をして、娘に点滴をしようとしている看護婦に
私はひとつだけお願いをしました。
当時、娘は右の親指の指しゃぶりをしていたので私は看護婦に
『右手は指しゃぶりをするので点滴は左腕にお願いします』
確かに私は看護婦に伝えました。
指しゃぶりをしながら娘はいつも眠っていたからです。

ところが・・・
私の伝えた言葉はまったく無視され
帰ってきた娘の腕の点滴は右腕にされていました。
私は信じられず愕然としました。

そして看護婦のところへ行って
今すぐ点滴を左腕にやり直して欲しいと伝えました。
すると、その看護婦に『お母さん。また痛い思いを子供にさせるの?』
と、逆に責められてしまいました。
この人・・・何なの。信じられない。
私は怒りが込み上げていましたが
カーテンで仕切られたベッドには
点滴中の方が何人もいるようだったので
私はまた自分の感情を抑え、我慢しました。

仕方なく娘をトントンとあやしながら
私は娘のそばで点滴が終わるのを待つことになったのです。
しかし・・・このあと信じられないことが起こってしまいました。
そして、その出来事は・・・
やがて何年も私を苦しめることになったのです。
罪の意識に似た気持ち。
私の心は、やがて徐々に壊れていきました。
続く...

あふれる想い76...
2008年12月02日

結婚記念日だった日にこうして離婚についての日記を書くとは・・・。
不思議なものです。

今の時代、離婚する人は確かに増えています。
バツイチという言葉もよく耳にします。

でも、離婚は決して簡単なことではありません。
とてもエネルギーを使い疲れます。

そして家族や親戚も巻き込んでグチャグチャになります。
今まで家族だった人たちが他人になり、敵にも変貌します。

みんなそれなりに十字架を背負っているのです。

どうか・・・
バツイチとか・・・
離婚したとか・・・
母子家庭とかと聞いても
偏見の目で見ないで下さい。

散々辛い目にあっているのです。
それでも頑張っているのです。

あなたのまわりに・・・
もし私と同じような人がいても
どうか冷たくしないであげてください。
優しく見守っていてあげてください。

**********************

6年6ヶ月24日

私たちの結婚生活に終止符が打たれました。

***********************

私は入社して4日目には名前が変わりました。

入社した時は結婚時の名前。
4日後の調停で旧姓に戻ったため
翌日出勤して出した書類により名前が変わりました。

当時、この会社では結婚が決まった女性は強制退職が当たり前。
勿論この会社にとって、私のような条件をもって面接をパスし
採用まで至ったことは異例中の異例でした。
前例などなかっただけに、社内の女性の目がとても厳しかったです。

そんな居づらい空気が漂う中、私はすべてが必死でした。
そして上司の異常な期待にも、毎日おおきなプレッシャーを感じていました。

離婚の感傷にひたっている余裕さえありませんでした。
すべてと言ってもいいほど、初めてのことばかり。
引っ越した土地も。
仕事内容も。
母子家庭も。

そして何故か・・・
私は休日になると必ず高熱を出していました。
精神的にボロボロだったのです。

調停から数日後、彼から連絡がありました。
娘の誕生日にディズニーランドへ連れて行きたいということでした。
初めて3人で行くディズニーランドが離婚後なんて。。。

1歳の誕生日にしてトコトコ歩いていた娘を見て、彼はとっても驚いていました。
それは無理もありません。3ヶ月ぶりの対面でした。
別居してから彼と娘が会ったのは初めてだったのです。
数時間遊び、私と娘は自宅へ送ってもらいました。

そして翌々日のクリスマス。彼がプレゼントを持ってきてくれました。
そしてファミリーレストランで待ち合わせをし
また3人で会ったのです。

こんなふうに一緒に過ごせるなら離婚することなかったのかな。
私は少しそんなことを感じ、彼をふっと見ると
彼は携帯電話の裏を見ながらニコニコ顔。
何?何でこの人笑っているの?電話見ながら。
不信に思ったので理由を聞いてみても、はっきり言いません。
すると、彼の方から突然「もう、お前たちには会わないから」そう言ってきました。
こういう時の女の勘は百発百中です。
彼には別居してすぐ、彼女がいたのです。
だから、親権のことも放棄したのだと納得がいきました。
私は直感で、あるひとりの女性の名前を言いました。
彼が付き合っていると思った彼女の名前。
「あたり」と言いながら彼は携帯電話の裏を見せてくれました。
そこには、幸せそうにふたりで撮っているプリクラが。
しかも、それはチュウプリ。。。
言葉がでませんでした。
まだ数日前に別れた元妻に堂々と見せるオープンな彼。隣には娘がいるのにこの人は。
完全に恋愛真っ最中で幸せオーラ全快の彼。
本当に嬉しそうで「お幸せに・・・」と、私にはそれしか言えませんでした。
続く...

あふれる想い75...
2008年12月01日

調停の日。この日も朝から娘は託児所へ。
私は車で2時間近くかけて家庭裁判所へと向かいました。
申立ての手続き以外で来たのは初めてです。

私と彼はそれぞれ別室に通されました。
女性と男性で部屋が別れているようです。
待合室のようなところには何人かの方がいました。
その中の、ひとりの女性は顔に殴られたようなアザがありました。
DV(ドメスティックバイオレンス)の被害にあわれているのだとすぐわかりました。
彼女は何かを恐れるように、待合室でもじっと息を殺しているようでした。
他に年配の方から若い方までいました。
みんな何かしらの理由があってこの場所に集まっています。

しばらくすると私の名前が呼ばれました。
中には3~4人の人が椅子に座っていました。
調停員と言われる人達です。

何故離婚の申立てをしたのか理由を聞かれ
そして、次々とやってくる質問にも答えなくてはいけませんでした。
初めて会う他人にあれこれ聞かれるのはきついです。
調停員は、基本的に丸く治めることが前提のようでした。
やり直せる方法や、相手のいい所を褒め
「だったら離婚することなんてないでしょう」と口々に言います。
ある程度の質問が終わると別室へ戻され、今度は彼が質問攻めに。
こうして何度か交互に呼ばれ「相手はこう言ってます」と
調停員はまるで伝言板のような役割でした。
何件も何件も、こうして離婚などの話を聞いていると麻痺するのでしょうか。
この人たちに温かい気持ちってあるのかな・・・そう思いました。
確かに、公平な立場でいなければいけないのでしょう。
それにしても・・・私には冷たい温度、冷酷な眼差ししか残りませんでした。
調停は2回まで行うことができ、2回で話し合いが終結しない時には
離婚や親権は裁判で争うことになるそうです。
私は何度でも向き合う覚悟ができていました。
ところが、彼は親権の話や離婚の同意について
あっさりと認めたのです。意外でした。
あんなに言い張ってたのに・・・?
絶対に何かある。私はそう思っていました。
そして、その理由は数日後明らかとなったのです。
私は親権を得ることもでき、調停離婚を1回で終わることができました。
養育費に関しては、正直に言うと信じられない残念な金額でしたが
娘が18歳になるまで支払うという約束をしてもらい承諾しました。
その他では、月に一度の面会ということが彼の条件に入っていました。

最後はふたり一緒に調停員の前に呼ばれ
離婚調停が成立したことを告げられました。
複雑な気持ちでした。

第三者に「あなたたちの離婚を認めます」と言われるのです。
結婚は簡単にできるけど、離婚はちゃんとした理由がなければできない。
何だか違和感がありました。

そして、何と呆気ない最後なのか。
大好きだったはずの人が隣にいても、ドキドキしない。

ほんとうに終わったんだ・・・そう思いました。

ともかく・・・親権を得た私は、ホッとしながら駐車場まで歩いていると
そこには彼がいて、「娘を頼むな」と言われました。
そして、「面会の日にちは連絡するから」と言われたので
連絡先の電話番号を伝えたのです。
やがて、数日後にきた娘の誕生日に面会をしましたが
その面会が彼と娘の最後の1日となったのです。
続く...

あふれる想い74...
2008年11月30日

数日後、面接を受けた会社から連絡がありました。
電話の相手は、面接を担当してくださった課長からでした。
もう一度、確認したいことがあるので会社に来て欲しいとのこと。

翌日、私はまた娘を託児所に預け会社へと向かいました。
受付を済ませると前回とは違う来客用の応接室に案内され
私は心臓のドキドキが止まりませんでした。
確認したいことって何だろう。何を今度は聞かれるんだろうと。

しばらくして課長がいらっしゃいました。
いろいろと話す中、面接の時と同じようなことを聞かれたので
私は思うまま、感じたまま素直に話をしました。
すると「わかりました。いいでしょう。合格。」との声。

私はその瞬間が信じられず聞き返してしまいました。
「えっ?私で本当にいいんですか」と。
課長はにっこり笑って「頑張ってください」そうおっしゃってくれました。

私は涙が溢れてきて思わず泣いてしまいました。
その涙は嬉しかったからだけではなく
もしかすると安堵感からだったのかもしれません。

一ヶ月後に控えていた調停の前には
どうしても、私は就職先が決まっていなければならなかったからです。
娘の親権を得るためには、どうしても合格しなければなりませんでした。

本当に嬉しかった。
そして実感が湧くにつれ、私はブルブル震えてしまいました。
採用の言葉をいただくまで、何日も不安でした。
やっと、その不安からも解放されたと思いました。

ただ、これからが本当に大変だということは
私も重々わかっていましたが
課長自身、たくさんのことを抱えすぎてる私を採用して
これから来る波が大きいことを予感しているようでした。
それを承知で選んでくださったことに
私は心から感謝の気持ちでいっぱいでした。

その日のうちに、配属先の方たちに紹介してくださり
私は自己紹介しました。
挨拶を済ませ、入社の書類を手渡され
2週間後から出勤することになりました。

社会人として・・・正式に社員として働くのは7年ぶりでした。
とにかく採用が決まったことで私は安心しました。
託児所へ娘を向かいにいき、託児所の先生にも
就職先が決まったことを伝えると、また話しながら泣いてしまいました。
先生も一緒に喜んでくれました。
娘にも「ママ、お仕事決まったよ」と伝えました。

そして、私はそこでハッとしたのです。
仕事が決まったということは・・・
もう、この子とは毎日ずっと一緒に過ごせないんだ・・・。

私は、調停前に仕事を内定させておく必要があることに必死で
当たり前のことをすっかり忘れていたのです。
親権を得るには仕事が決まらなければいけない。
実家からは勘当されちゃったし
働かなきゃ生活できないから仕事するのは当然。
でも、仕事するってことは
この子を朝から晩まで、他人に預けるってことなんだ。

この子と毎日一緒に過ごしてきて
ひと時も離れたことなんてなかったのに・・・。

面接を受けるために預けるだけでも
私も娘も泣きながら別れているような状態なのに
これからは毎日だなんて・・・。

不安と淋しさとで私の心は破裂しそうでした。
きっとそれは、娘も同じはずだったはず。
この時、娘はまだ11ヶ月になったばかりでした。
まだまだ母親が必要な時期なのに。
本当に辛かった。

私は、仕事が決まった喜びと同時に
仕事をする為に娘を預けなくてはならない現実に挟まれていたのです。

入社が決まったことで保証人を立てたりしなければならず
私は娘をつれて数日ぶりに実家へと行きました。
両親に会うのは久しぶりでした。
勘当されたことで帰りにくかったのですが
まだまだ、私にはこれからやることが多すぎて
まったく1人きりでは難しい状況だったのです。
私を勘当した父は、私がきていても知らん顔。
でも、私と娘を家にあげてくれただけ有難いと思いました。

そうこうしているうちに入社日がきてしまい
私は泣き止まない娘をなだめ、何とか託児所に預けて出勤しました。
朝の通勤ラッシュにともない、慣れない土地での移動。
託児所から会社まで車で1時間以上かかり大変でした。
初日の朝からへとへと状態。

それから、私は母乳が良く出たので
数時間後に胸が張ってきてしまい痛くて大変でした。
パンパンに張ったソフトボールのようになってしまい
母乳パットをトイレで何回も交換しなければ
ブラウスや制服までも母乳が染み出してきそうでした。

母乳パットを交換しにトイレへ行くたび
娘の顔が毎回出てきて、思わず何度も泣きそうになりました。
「今頃どうしてるだろう。泣いてないかな」
色々なことが浮かびましたが、私は気を取り直して
デスクに向かわなければなりませんでした。

そして入社から数日後、私はお休みをいただき
いよいよ調停の日を迎えたのです。
続く...

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